エッセイストのように生きる

今月は、暮しの手帳の元編集長でありエッセイストの松浦弥太郎さん著「エッセイストのように生きる」を読みました。




読めば読むほど、私がなんとなく「こんな風に生きられたら…」と思っていたことを言語化してくれているような感覚になりました。

半ば興奮冷めやらずで、上手くお伝えできるか分かりませんが…



私はエッセイを書いたことはありませんが、日記やSNS等で、記録をつけたり、自分が感じたことを言葉で表すのが好きです。

好きだからこそ、いつもどこかで、自分の心が少しでも動いたことに敏感でありたいし、それを言葉と文章でバチっと表せた時はとても嬉しいのです。



自分の心の動きに敏感になると、「なぜこんなに心が動いたんだろう?」と考えます。

すぐに分かる時もあれば、どんなに考えても分からない時もあり、そういう時は頭の隅っこに置いておきます。

そうして色んな経験や思いを重ねるうちに「こうだったのか!」と分かる時もあります。



そうして焦らずゆっくり、でも確実に「わかった」が増えていくのは、宝物が増えたような気持ちになります。

自分はどんな時に喜んで、どんな時に悲しむのか。

何を大切にしていて、大切じゃないものはなんなのか。

自分のことが分かってきます。



自分のことを「わかっている」ことが多いほど、自分を喜ばせてあげることも、辛いことから守ってあげることもできます。

自分で自分を幸せにすることができる感覚があります。

松浦さんが本の中で教えてくれた言葉、「ドクター・ユアセルフ あなた自身の医者であれ」を実践することが出来るのです。



松浦さんは本の中で、エッセイストという生き方の一つに、嫌なことも前向きに味わい尽くせる生き方と書かれています。


私は以前ブログに上げた大橋鎮子さん著「すてきなあなたに」を初めて読んだ数年前に、「私もいつもこんな心の視点を持ってものごとを見つめられたら、もっと自分の暮らしが宝物のような日々になるだろう」と、心の中にエッセイストの視点が加わりました。


心の中にエッセイストの視点があると、嫌な出来事でさえもエッセイの種であり、そこからまた自分のことを一つ知り、分かるきっかけになる。

どんな感情も味わい尽くせるんだとわかり、嬉しくなりました。



松浦さんが挙げたもう一つのエッセイストとしての生き方は、なにかになる為の生き方ではなくどんな人間になりたいのか考える生き方ということです。


私は子供の頃将来の夢を聞かれるのに抵抗がありました。

将来の夢=大人になったら就きたい職業、というのは窮屈さを感じ、あらゆる職業から無理矢理「これならまぁ良いかも」と半ば妥協して探し出し、答えていました。


そんな私ですが何故か子供の頃から漠然と「やさしい人になりたい」と思っていました。

今だにどうしてそう思うのか、そもそも「優しい」ってなんなのか、答えに辿り着けていません。

それでも諦めがつかないので、これが私の本当の夢の一つなんだと思います。

松浦さんの生き方の提示に、自分の夢はこれで良かったんだと、ほっとした気持ちです。

そして知っている仕事からの選択になりがちな将来の夢より、自分で作り出していける、死ぬまで描き続けられる夢なのです。



つらつらと書いてきましたが、エッセイストのように生きるって、僅かな疑問も疎かにせず、自分の納得がいくまで掘り下げなければいけません。

それは時間が多く必要になりがちだし、それだけに「わかった」は中々増えていきません。


じゃあ、さまざまなものを粗末に扱い、無関心で、いい加減な気持ちで生きるのか?

せっかくのたった一度きりの、一つだけの人生、それはあまりに哀しいこと。


自分の人生くらい、自分で責任持って幸せに生きられるように、出来ることはなんでもしたい。

松浦さんの本に今一度心を強くしてもらった気がします。



既存の幸せや自分の生き方に疑問を持っている方にもきっと良いヒントが隠れているでしょう、松浦弥太郎さん著「エッセイストのように生きる」の感想でした。

長くなってしまいました、最後まで読んでいただきありがとうございます。